「新しい現実 The New Realities - Rebirth」へようこそ
ここにある記録が何らかのお役にたてれば幸甚でございます。

久々にHARRY BOSCHシリーズを読みました。シリーズ第7作目となる"A DARKNESS MORE THAN NIGHT"。ボッシュ・シリーズではない"BLOOD WORK"の主人公TERRY McCALEBとの共演によるストーリーとなっています。
同じくボッシュシリーズ外作品の"POET"の主人公JACK McEVOYも登場しているので、すっかりオールスター戦の様相。これまでシーケンシャルにコナリー作品を読んできた読者にとっては楽しい作品です。
元犯罪分析官のマッケイレブのもとにかつての同僚である女性捜査官が捜査の協力を求めてきます。彼女は行き詰まった殺人事件のプロファイルを依頼してきたのでした。調査を進めていくにつれテリーは、知人でもある刑事ハリー・ボッシュが容疑者であることに確信を持つようになるのです。ボッシュは自身に容疑がかけられていることに気づき、行動をおこします。そして2人は過去と現在の暗い闇に対峙することになるのです。
さて、MICHAEL CONNERLYの作品にはいつも音が背後にあるのですが、本作品には"Art Pepper meets the Rhythm Section"が流れています。テリーがハリーの家にいったときにながれていた曲です。軽快なリズムにペッパーのアルトサックスものっているかのようですが、裏には確固とした悲哀が横たわっている感じが、本書の雰囲気にとてもあっているように感じました。
ところで、テリーが食べようと意気込んでいたのに食べられなかった料理があります。売り切れで食べられなかったのは、キューバ料理の"lechon asada"。どんな味の料理なんでしょうか。ぜひ一度食べてみたいものです。

裏表紙の存在感ある著者の風貌に惹かれて手にした一冊(笑)。
映画『ボーン・コレクター』のリンカーン・ライムシリーズであることも露知らず読んだのですが、これがとても面白かったんです。私にとっては久々のヒットです。ジェフリー、すばらしい!
連続殺人事件の現場にはムーンフェイスのついたアンティークな時計が置かれていた。自身をWATCHMAKERと名乗る頭脳明晰な犯人は次々と被害者に襲いかかっていく。次の犠牲者は誰なのか。一体、犯人の目的は何なのか。車椅子の分析官リンカーン・ライムとそのパートナー、アメリア・サックス捜査官はこの天才的狂人と対峙する。しかし、サックス自身がこの事件に深く関与していることには彼女はまだ気づいていなかった。
いやはや、素晴らしいストーリー展開です。真相が二転三転四転します。
やはり私はこの本のように「うわー、すっかりだまされたー」と、もだえるようなストーリーが好きなんですねぇ。
WATCHMAKERが共犯者のVincentに時計の蘊蓄を語るシーン。
"In early clocks, the bells were the only thing that told you the time. There were no faces or hands." "Oh." "The word 'clock' comes from the Latin clocca,which means bell."
「CLOCKとはラテン語でCLOCCA、ベルという意味なんだよ。」
また、私のラテン語のボキャブラリーが増えました(笑)。

私にとってはかなり読みづらかった一冊。気の利いたおしゃれな文面なのかもしれません。でも、もともとボキャブラリーが貧弱な私ですから、単語や言い回しがわからないところが多くて、読み終わるのにずいぶんと時間がかかりました。
物語はいきなり主人公Joeyが夜の海に裸で漂うシーンから始まります。彼女は豪華客船のデッキから夫Chazに海へと突き落とされたのでした。SKINNY DIPとは裸で泳ぐという意味。彼女は助けてくれた元警官のMickと共に夫への復讐を始めるのです。
コミカルなシーンが随所にあり、面白いのかもしれませんが、私にはいまひとつでした。ストーリーが平板で驚くような仕掛けがないからでしょうか。
ただ、物語の脇役ででてくる老婆の話はちょっとイイです。
"I believe it's never too late to change. I'm eighty-one years old,but I still think I can be a better person tomorrow than I am today."
「変わるのに遅すぎることなんてないと思う。私は81歳になるけど、今日の自分より明日の自分のほうが、より良い自分になれるってずっと信じているの。」
さて、まだまだ私も変わらなければなりません。日々、より良い自分となるよう精進せねば。

以前、ピアノコンチェルトの「協奏曲」を「競争曲」だと思っていて、妻に笑われたことがあります。でも、それがそう馬鹿にできない間違いであることがわかりました。
コンチェルトという言葉は、それまでの無伴奏合唱曲の響きの均質さに対して、器楽と合唱が「競いつつ調和する」という意味で使われたのである。concertareはラテン語では「競う」を、イタリア語では「協調させる」を意味した。協奏曲は競争曲なのである。
妻よ、私はラテン的に正しかったのだ…(笑)。
それは中公新書の岡田暁生氏著『西洋音楽史』を読んでの発見でした。
タイトルからするとカタッ苦しい音楽の授業のようですが、わたしのようなシロートにも分かり易くクラシックを中心としたヨーロッパ音楽史が理解できます。
分かりやすさと反比例して質は低下しがちなものです。でも、この本はさにあらず。表現のしかたや流麗な文体が素晴らしいです。その証左にこの本の最後の文章を載せておきましょう。
カラオケに酔い、メロドラマ映画の主題歌に涙し、人気ピアニストが弾くショパンに夢見心地で浸り、あるいは少ししか聴衆のいない会場で現代音楽の不協和音に粛々と耳を傾ける時、人々は心のどこかで「聖なるもの」の降臨を待ち望んでいはしないだろうか?宗教を喪失した社会が生み出す感動中毒。神なき時代の宗教的カタルシスの代用品としての音楽の洪水。ここには現代人が抱えるさまざまな精神的危機の兆候が見え隠れしていると、私には思える。
クラシックを聴く方にオススメの一冊です。私にとっては私に眠るラテン語のセンスを気づかせてくれた一冊ですが(笑)。

本物の音楽は、もう、ここにある。始まっている、流れている。聞こえないとすればそれは、聴こうとしていないからだ。耳をすませて、音楽を聴く。すべてはそこから始まるのである。
茂木健一郎著『すべては音楽から生まれる』を読んでみました。
「聴くこと」とは、自分の内面にある、いまだ形になっていないものを表現しようとする行為に等しいと著者は述べています。いたく同意。
受動的ではなく能動的に外界からの刺激をうけることが自分を自分たらしめるのでしょう。聴くことだけに限らず、見ること、読むこと、味わうこと、すべてにおいて同じことですね。どう知覚したのか、理解したのかではなく、どう感じたのか、どう思ったのかこそが大事なのです。
音楽を聴いていていつも思うことは、自分が「今、ここ」でまさに感じていることをすべてはつかみきれないまま、時が過ぎていくということである。(中略)
音楽を聴くこととは、つまりは「うまくサヨナラをすること」だと思う。
さて、聴くこともままならない私なのですが、あろうことか突如聴かせる立場となってしまいました。発表会で娘とピアノの連弾をすることになったのです。
何を弾いているか分からないまま時が過ぎてしまわないように、聴く人がうまく「サヨナラ」できる程度にさらりと弾けるように精進いたしましょう(笑)。

マイケル・コナリー著ハリー・ボッシュ シリーズ第6弾、"ANGELS FLIGHT"(1999)。
ボッシュは自身の管轄のハリウッドではなく、ロスの殺人事件に呼び出される。現場はLAのトロリーの車内。被害者はロス市警内に数多くの敵がいる敏腕弁護士だった。警察に疑いの目を向ける市民らが暴動を起こしそうな緊迫のなかでボッシュは事件の真相を探る。しかし事件は別の事件とも絡むとともに、疑惑の渦中には元バディであり友人がいたのだ…。
スピーディーな展開と鋭い切れのロジックは読むものを飽きさせません。最後の最後で真実が明らかになるのはいつものコナリーの真骨頂。
正直、事件の内容は気分が悪くなるものがあります。しかし、人の持つの暗い面をえぐり出し、人間の弱さや悲哀を描くコナリーならではの世界なのです。
さて、今年のペーパーバックはこれでようやく9冊・・・。年初にたてた目標の20冊には遠く及びませんが、年内にもう1冊くらいがんばって読んでみましょう!

やばい。今年8冊目のペーパーバックをようやく読了。確か年頭の目標では年内20冊とかぬかしていたような…(汗)。
MICHAEL CONNELLYのHARRY BOSCHシリーズ「外」作品、"BLOOD WORK"を読んでみました〜。

「パパ、何が食べたい?誕生日なんだから好きなもの食べていいのよ」
妻に問われるも、これといって食べたいものは浮かんできません。牡蠣はつい先日たべたし、お刺身も旨いところを食べてしまった。肉といっても、以前口にした佐賀牛にかなうものは買えないでしょうし。国産松茸もこないだ食べたしなぁ。
うーん、身分不相応に食のパトロンがいるものですから、こういうときに困りますなぁ(笑)。
思い悩んだ末、出したこたえは
「ケンタッキーがいいな」
ハレの日のご馳走です(笑)。

先日、読んだ『思考の整理学』が面白かったので、同じく外山滋比古氏による『ことわざの論理』を読んでみました。
ことわざというだけで理屈っぽいのに、その論理だなんて、いかにも堅苦しい印象をうけるタイトルです(笑)。

村上春樹氏の書き下ろしが週末発売されました。『走ることについて語るときに僕の語ること』。
私も今年の夏から走り始めました。といっても、1〜2日おきにゆっくりとしたジョグ。それでも走り始めたころは10分走るのもきつかったものです。
私の走り出した理由は、健康のためではなく、自分を揺さぶってみたかったから。自分に刺激を与えてみて、なにが出てくるか、試してみたかったのです。それもひとに迷惑をかけず、いざというときの撤退コストが低いもの。そして、スポーツに縁遠い私でも参入障壁が低いということで選んだのが走ることだったのです。

本屋さんを物色していてたまたま目にとまったのが平積みされていた『思考の整理学』。これは面白そう!とピンとくる感じではなく、なんだかホンワリと心にひっかかる感じがするのです。

『佐藤可士和の超整理術』に引用されていて気になったので、購入したのが『「脳」整理法』
著者の茂木健一郎氏についてはソニーの出井さんの本などで「クオリア」の人というくらいの認識でしたが、最近はやたらテレビに出ているようでご活躍のお方ですね。

読んでも一瞬には変われそうにはありませんが、かなり奥深い一冊です。原題は"unlimited power"−「無限の力」。個々人、それぞれ無限の可能性を持っているという、ポジティブな本です。
「究極の力」とは、自分自身が強く望んだとおりの成果を上げながら、世の中のためになる価値をつくり出す能力のことだと私は考えている。
同じようなことを『佐藤可士和の超整理術』のなかで佐藤可士和氏も述べてましたね。
「楽しく、早く、いい仕事をして、人に喜んでもらって、自分もハッピーになりたい。」
− 『佐藤可士和の超整理術』 佐藤可士和
高みをめざすひとの信条は本質的に同じようです。

整理して捨てるのは不安です、物でも考え方でも取り返しがつかないような気がするかもしれません。しかし、その判断が価値観を研ぎ澄ましていくのです。
−「あの人とこんな話」2007.9.17朝日新聞朝刊
朝日新聞に載っていたコラム、「捨てる判断が価値観を研ぎ澄ます」という表現に光を感じ、手にしたのが、アートディレクター佐藤可士和氏の著作『佐藤可士和の超整理術』でした。

ずいぶん前に子供に買ってあげた「星の王子さま」
ところが、読んでみるとこれが軽くないのです。童話ですので文体は難しくないのですが、意味を理解しようとすると読み進められないところが多々。思いのほか難解なのです。

最近、自ら新たなものを創出しようと奮闘しています。とはいっても、徒手空拳ではやりだすのもやり続けるのも難しいのでアイデア創出本を探しては読み、考えるヒントをみつけようとしているのです。そんなときにみつけた『考えないヒント』・・・。小林秀雄著『考えるヒント』の逆張りですか・・・(笑)。「料理の鉄人」などで有名な放送作家、小山薫堂さんらしいヒネくれたタイトルですねぇ(笑)。

DNAの構造解明をめぐるドロドロとした研究者達の攻防をスリリングに描きつつ、生物と非生物の違いを分かり易く説き明した秀作。
理系の方とは思えないほどの流麗な文体がすばらしく、難しい話もすんなりと読めるようです。

またまたアイデア創出本を読んでみました。フォスターの『アイデアのヒント』です。この本でもアイデアの定義としてヤング氏のあの有名なフレーズがでてきます。
Why not find your new realities?
食とは、味はもちろんのこと、サービス、価格、雰囲気、タイミングなどの複雑な要素の織りなす重要な活動です。それは一般的な消費者たる私たちにとっても単なる消費行為ではなく、そこから受けるおいしさや楽しさにより生産的行為となっているはずです。
そこには新しい発想、新しい知覚、新しいコミュニケーションが存在するのです。それらは、すぐそこにあります。その新しい現実をご一緒に発見し、確認していきましょう。
とはいえ、この活動は「内食」すなわち家庭の食事をないがしろにするものではありません。さりとて、単身赴任、孤食、常態的残業、夜間の塾通いなど、旧来の「暖かい食卓」を求めるには難しい世情となっているのが現状です。そういった現実とのバランスをとりながら、新しい現実を探求する必要があるのでしょう。



